森川和夫：廣重の風景版画の研究ー（１）
　古写真で読み解く広重の江戸名所

７８．藤慶江戸名所　芝愛宕山
　幕末から明治初期にかけて撮られた愛宕山男坂と坂下の鳥居の写真は比較的数が多いが、ここに掲載したフェリックス・ベアトによる写真はそれらのうちおそらく最も古い部類に属するものといえよう。日差しの強い夏の午後撮影されたものだろうか、男坂両側の樹木が鬱蒼と茂り、濃やかな影を落としている。男坂に武士が一人、鳥居の下に裸形が一人写っている。写真右側に写っているなだらかな石段が女坂である。単純な構成であるが、非常に魅力的な一枚だ。写真としては、これで立派な名所写真となるのだが、独立した名所絵としては成立しにくい。

　愛宕山鳥居の近景
　フェリックス・ベアト写真集（明石書店）

　藤慶江戸名所芝愛宕山
　広重江戸風景版画大聚成（小学館）

　愛宕山男坂を描いた広重の絵は、愛宕山全体を捉えた俯瞰図か、または、少なくとも坂上の楼門とその左右の茶店までを含む広域的な絵組みとなっている。これは、購買層を納得させる名所絵としての道具建てがどの程度揃っているかいないかという問題に他ならない。鳥居と石段だけでは、一見して万人にこれを愛宕山であると認識させることがむずかしいのではないだろうか。事実、幕末・明治期の写真で、鳥居と石段のみの写真が相当数あり、そのうち場所不明のものも少なからずあるのである。

　そこで、広重としては、愛宕山固有の名所絵としての要件を幾つか追加し、誰が見てもこれは愛宕山であると納得しうるものにする必要があったのだ。ここで採り上げた藤慶江戸名所芝愛宕山は、視点の高さを山の中腹に据えて、愛宕山を真正面から捉えた構図となっている。ここまで視角を拡げると、坂上なる楼門とその左右の茶店、右手の女坂までも視野に入れて、これで始めて万人の納得する愛宕山になりうると広重は判断したに違いない。もっとも、この絵は鳥居の笠木の辺りから絵が始まっているので落ち着きが悪い恨みはあるが。

　佐野喜中判江都名所芝愛宕山
　広重江戸風景版画大聚成（小学館）　　

　ここで、愛宕山全体を捉えた俯瞰図である佐野喜中判江都名所芝愛宕山を序でに引いておきたい。本図は、芝愛宕下桜川に沿った往来から描き起こし、鳥居、男坂、山上の楼門、本殿まで愛宕山全体を中判に収めたものである。山全体が黒っぽく彩色され、色彩のメリハリが欲しいところであるが、絵組みそのものはなかなか優れていると思われる。路上の人物、茣蓙を広げて何物かを鬻ぐ露天商など、広重の小人物はいつもながらその上手さに感心させられる。

> next